福祉の道を顧みて
顧みますと、戦後間もない昭和25年、教護院の教母として夫とともに赴任した「三方原学園」では、戦争により肉親を失い孤独に泣きながらさ迷える少年や貧しさ故の家庭の崩壊により家族との心のつながりを失った少年の姿がありました。心を閉ざした子供たちの声にじっと耳を傾け、寮長の夫とともに父親・母親代わりとして子供たちと寝食を共にし、家庭の温かさを少しでも子供たちの心に感じさせたいと夢中で努めた9年間でした。
「味噌汁に朝餉(あさげ)のかおり家族舎に漂う平和静もれるかな」
「あれほどに頑なにせし少年の笑顔寂しく母を語らう」
「母も子も幾年振りの面会に涙溢れて語らいもせず」
その後赴任した「浜名寮」「磐田学園」では、知的障害児の生活指導に当たることとなりましたが、さまざまな障害を持って生まれた子供たちの生活に直面して眼をみはる思いでした。障害を背負った子供たちを身辺の自立から根気よく指導し先導していくたくましき保母像を目指して昼夜となく努めた5年間でした。
「いかにして導かましや入浴の着衣を知らぬ子の手をとりて」
「明け暮れを親に代わりて手をとりぬ立ち遅れせし子らと行く道」
「朝夕な立ちえぬ子らに囲まれて保母なりせばと心はげみぬ」
その後「県西部福祉事務所」の母子相談員として母子家庭の生活安定のための身の上相談や教育相談等の業務に従事することとなりました。夫と死別し頼る支柱を失い幼児を抱え荒き世の風に耐えつつひたすらにわが子の成長を願い、苦しみをじっと噛み締めて励む母の姿を目の当たりにして、尊くも涙ぐましく感じられたことが思い起こされます。
「悲しみに背の君逝きて玄関に耐えて久しく打ち水のせし」
「荒き世の風に耐えつつ手一つに子を育ていく母の尊し」
昭和49年、皆様方の温かいお心に支えられて、社会福祉法人遠淡海会の認可を受け、三方原学園長を最後に25年余の県職員生活を終え退官した夫とともに、県西部地域に初めて乳児院を設立しました。祝福されるべく出生を誰一人として悦んでくれる人もなく、母親は深夜そっと冷たい街の電話ボックスにわが子を置き去りにしました。こうした宿命という悲しさも知らず無心に眠るみどり子を育て幸せを願う乳児院の運営に情熱を注ぎ福祉の灯を燃やしてまいりました。境遇の変化に時代の流れを感じますが、変わることなかれと願うのは子供たちの幸せと平和な生活です。
「何事か訴えて泣くみどり子を 笑顔て抱けりうら若き保母」
「青笹に幸多かれと七夕の 星に託せし幼子の夢」
「ひたすらに母に代わりてみどり子の 発育しるす眠る子を背に」
「花かげに無心に遊ぶ幼子は 母と慕いて微笑みかわす」
その後、地域の皆様のご協力を得て、理事長である夫とともに、昭和52年に若宮保育園、平成元年には特別養護老人ホーム神久呂の園を設立し、平成16年からは遠淡海会が公立保育園民営化第一号として和合保育園の運営を引き継いでおります。
思えば、休む間もなく、福祉の道一筋に夢中で歩んだ人生でございました。 これもひとえに行政を始め地域やボランティアの皆様、そして法人、施設の役職員等多くの皆様方の長年に亘るご支援とご協力の賜と心より感謝申し上げます。
病により身体の自由を奪われた現在は特別養護老人ホームにて多くの職員の皆さんに支えていただきながら療養中でありますが、残された人生を明るく精一杯頑張ってまいりたいと思います。
「起つことの嬉々とし胸によみがえり 立ち振る舞える 夢ぞ悲しき」
どうか、今後とも、遠淡海会への変わらぬご支援をお願い申し上げますとともに、遠淡海会が地域福祉の担い手として今後更に発展されますことを祈念いたしまして、お祝いのご挨拶とさせていただきます。
社会福祉法人遠淡海会
元浜松乳児院院長 故 水谷 ひさ